突然ですが、今日をもちましてブログをBloggerへ移転します。
新しいブログ、「A.G.I. 2.0 [Blogger Edition]」のURLはこちらです。
http://agigangen.blogspot.com/
なお当分の間、このブログはこのまま放置します。
BloggerがMT形式に対応するか何か手段を構築出来たら、エントリーをすべてBloggerに移してこちらは閉鎖する予定です。
実際に開設してから約1年間でしたが、みなさまご愛顧ありがとうございました。
結局生放送は出来ずじまい、ポッドキャストも数回しか配信出来ませんでしたが、メインブログ「A.G.I. 2.0 (Seesaa Edition)」ではゴールデンウィーク明けにポッドキャスト配信を再開する予定なので、是非おつきあい下さい。
新しいブログでもどうぞよろしくお願いします。
らじろぐのスタッフのみなさま、お世話になりました。m(_ _)m
2009年04月01日
2009年03月31日
2009年03月27日
悪いのはどっち?
『パンチェン・ラマ、ダライ側を批判「破壊者が誰か分かった」』
[ 3月27日 産經新聞の記事 ]
安定を破壊しようとしている人がどうしてノーベル平和賞を授与される?
そう問いたくなるような記事。
そもそもパンチェン・ラマ11世コトギェンツェン・ノルブ氏が本当の「パンチェン・ラマ」なのか。
ガンデンポタン(チベット亡命政府)が認めたゲンドゥン・チューキ・ニマ少年こそが本当の「パンチェン・ラマ」なのではないか?
疑問は尽きない。
ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は今も行方不明のまま、どの裏には中国政府が関わっているという話もある。
コトギェンツェン・ノルブ氏は世界に出て世界を見たことがあるのだろうか?
世界の要人やマスメディアと会話をもったことがあるのか?
今回の声明はその結果か?
強いて言えばチベット文化の破壊にもつながるパンチェン・ラマ11世問題。
いい加減、この不透明さから脱出してほしいところなんですが。
[ 3月27日 産經新聞の記事 ]
安定を破壊しようとしている人がどうしてノーベル平和賞を授与される?
そう問いたくなるような記事。
そもそもパンチェン・ラマ11世コトギェンツェン・ノルブ氏が本当の「パンチェン・ラマ」なのか。
ガンデンポタン(チベット亡命政府)が認めたゲンドゥン・チューキ・ニマ少年こそが本当の「パンチェン・ラマ」なのではないか?
疑問は尽きない。
ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は今も行方不明のまま、どの裏には中国政府が関わっているという話もある。
コトギェンツェン・ノルブ氏は世界に出て世界を見たことがあるのだろうか?
世界の要人やマスメディアと会話をもったことがあるのか?
今回の声明はその結果か?
強いて言えばチベット文化の破壊にもつながるパンチェン・ラマ11世問題。
いい加減、この不透明さから脱出してほしいところなんですが。
2009年03月01日
2009年02月28日
風の馬/雪の下の炎
2009年02月22日
2009年02月11日
トフティ・デイ
『ウイグル人東大院生が釈放 中国、11年間の投獄』
[ 2月11日 産經新聞のウェブ魚拓 ]
無実のウイグル人東大院生、トフティ・トゥニヤズさんが釈放されました。
釈放そのものは素直に喜ぶべきでしょう。
しかし、トフティさんは刑務所から出所しただけで、完全に自由な身になったのではありません。
支援団体がトフティさんとの連絡をとれないことからも、トフティさんが今だ厳重な監視下に置かれていることが伺えます。
今、奥様のラビア・トフティさんが日本への帰化申請を出しているということですが、日本政府がかけあってくれるでしょうか?
胡錦濤国家主席に対してこの問題に言及したのは安倍元首相のみ。
弱腰外交の日本に対して中国政府が強気な姿勢を見せてくるのは想像に難くありません。
簡単に中国がトフティさんを日本への"帰国"を認めるとは思えないのです。
真の"釈放"はまだまだ先。
これからが正念場です。
トフティ・トゥニヤズさんに真の自由を!
そして、ウイグル人の未来に光を!
【関連記事】
・Rave Tibet, Rave Uyghur (28)
[ 2月11日 産經新聞のウェブ魚拓 ]
無実のウイグル人東大院生、トフティ・トゥニヤズさんが釈放されました。
釈放そのものは素直に喜ぶべきでしょう。
しかし、トフティさんは刑務所から出所しただけで、完全に自由な身になったのではありません。
支援団体がトフティさんとの連絡をとれないことからも、トフティさんが今だ厳重な監視下に置かれていることが伺えます。
今、奥様のラビア・トフティさんが日本への帰化申請を出しているということですが、日本政府がかけあってくれるでしょうか?
胡錦濤国家主席に対してこの問題に言及したのは安倍元首相のみ。
弱腰外交の日本に対して中国政府が強気な姿勢を見せてくるのは想像に難くありません。
簡単に中国がトフティさんを日本への"帰国"を認めるとは思えないのです。
真の"釈放"はまだまだ先。
これからが正念場です。
トフティ・トゥニヤズさんに真の自由を!
そして、ウイグル人の未来に光を!
【関連記事】
・Rave Tibet, Rave Uyghur (28)
2009年02月04日
2009年02月03日
"靴"は投げられた。
確か最大の侮辱なんですよね、靴を投げつけるのって。
去年12月14日、バグダッドでの記者会見中に起きたブッシュ前大統領への靴投げ事件。
このとき靴を投げたイラク人記者はヒーロー扱いされているようですが、その投げた靴のメーカーに"特需"が訪れたり、ちょっと不謹慎なflashゲームが生まれたりと、ちょっとした副産物も生まれましたね。(苦笑)
『根深い「反ブッシュ」 靴投げ侮辱のイラク人記者は「英雄」扱い』
[ 2008年12月15日 産經新聞のウェブ魚拓 ]
『「ブッシュ靴」に注文殺到 トルコの会社、従業員増員』
[ 2008年12月23日 産經新聞のウェブ魚拓 ]
『仕事早っ! ブッシュ靴投げ事件をネタにさっそくFlashゲーム登場』
[ 2008年12月16日 Gpara.comの記事 ]
そして、次に靴のターゲットとなったのは温家宝首相だったようです。
『温家宝首相に靴投げる 英大学で講演中、命中せず』
[ 2月3日 朝日新聞のウェブ魚拓 ]
「我々は平和にやっている。男の行為が中英の友好を妨げることはない。調和は武力によって妨害されないと歴史が証明している」
・・・・・・ちょっとだけ命中してほしかったなぁと思ったのは僕だけでしょうか?
どのツラさげてそんなことが言えるんだと。
投げた方はおそらくチベット支援者の方でしょう。
僕的にはこの靴を投げた男性こそ、Good Jobだったと褒めたいですね。
去年12月14日、バグダッドでの記者会見中に起きたブッシュ前大統領への靴投げ事件。
このとき靴を投げたイラク人記者はヒーロー扱いされているようですが、その投げた靴のメーカーに"特需"が訪れたり、ちょっと不謹慎なflashゲームが生まれたりと、ちょっとした副産物も生まれましたね。(苦笑)
『根深い「反ブッシュ」 靴投げ侮辱のイラク人記者は「英雄」扱い』
[ 2008年12月15日 産經新聞のウェブ魚拓 ]
『「ブッシュ靴」に注文殺到 トルコの会社、従業員増員』
[ 2008年12月23日 産經新聞のウェブ魚拓 ]
『仕事早っ! ブッシュ靴投げ事件をネタにさっそくFlashゲーム登場』
[ 2008年12月16日 Gpara.comの記事 ]
そして、次に靴のターゲットとなったのは温家宝首相だったようです。
『温家宝首相に靴投げる 英大学で講演中、命中せず』
[ 2月3日 朝日新聞のウェブ魚拓 ]
「我々は平和にやっている。男の行為が中英の友好を妨げることはない。調和は武力によって妨害されないと歴史が証明している」
・・・・・・ちょっとだけ命中してほしかったなぁと思ったのは僕だけでしょうか?
どのツラさげてそんなことが言えるんだと。
投げた方はおそらくチベット支援者の方でしょう。
僕的にはこの靴を投げた男性こそ、Good Jobだったと褒めたいですね。
2009年01月17日
阪神・淡路大震災。
1995年(平成7年)1月17日未明に発生した兵庫県南部地震、通称「阪神・淡路大震災」からもう14年。
あの地震報道を見た時の戦慄感は今も忘れられません。
今日は2ちゃんねるでよく出てくる有名なコピペをまとめてみました。
改めて亡くなった皆様のご冥福をお祈り致します。
その1。(これは新潟県中越地震のときのもののようです)
阪神・淡路大地震のあと、阪急電車の復旧を沿線の人々は待ち望んでいた。うちもその一軒。
夜を徹して行われる作業、騒音や振動をこらえてくださいと、電鉄会社の人が頭を下げに来た。
「何を言ってるんだ?我慢するに決まってるじゃないか。それよりも一刻も早い復旧を。」
うちも含めて、沿線の人々はみなそう言って、電鉄会社の人を励ました。
阪急は国の補助も受けず、少しづつ復旧・部分開業していった。
そして最後に残された西宮北口〜夙川間の高架部分の再開によって、
ついに神戸本線は全通した。
再開の日に、もちろん漏れも乗りに行った。神戸で逝った友のもとへ行くために。
運転台の後ろは人だかりだった。みな静かに鉄道の再開の喜びをかみ締めているようすだった。
夙川を渡るそのとき、川の土手に近所の幼稚園の園児たちが立ち並んでいるのが目に飛び込んできた。
手書きの横断幕を持って・・・。
「あ り が と う は ん き ゅ う で ん し ゃ」
運転手が普段ならしないはずのそこで敬礼をした。
そして大きく「出発進行!」と声を上げた。
その声は涙声になっていた。漏れも泣けた。
ときよ、上越新幹線よ、もまいを待っている人々がいる。
復興のために、そして人と人をつなぐために、よみがえれ、不死鳥のごとく。
その2。
2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。
少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
あんたらにわかるか?
消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」
最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女が門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。
その3。
某議員サイトでの自衛隊のあまりの叩かれ方に辟易してここにやってきました。
外野でボロカスに言われても、こことか見てると、分かる人は分かってるんだなって思ってほっとしました。
被災したとき、俺はまだ中学生でした。全開した家で、たまたま通りに近い部屋で寝てたので、腕の骨折だけで自力脱出できました。
奥の部屋で寝ていたオカンと妹はだめでした。
なんとかしようにも、あたりも真っ暗、俺も怪我していて手作業ではどうしようもなく、明るくなってからようやく近所の人に手伝ってもらって瓦礫をどけながら、必死で掘り返しました。
でもどうしようもなかった。
半日以上たってから、自衛隊の人を見かけて夢中で助けを呼びました。
数時間以上かけたと思います、自衛隊の皆さんは瓦礫の中から母と妹を救助してくださいました。
残念ながら母も妹はすでに亡くなっておりました。
その後、家は火事で焼け落ちました。
あの時自衛隊の皆さんが来てくださらなかったら、妹の遺骨を焼け跡から拾うことになったのかも知れません。
ボロボロになった妹の体を引きずり出して、「ごめんなぁ」とつぶやいた自衛隊の方の顔を俺は一生忘れません。
あの時は、本当にありがとうございました。
それから、俺の怪我の手当もしていただきました。ありがとうございました。
政治家が何を言おうと、俺達はあのときの皆さんに感謝しています。
本当にありがとうございました。
その4。
これはどうかと思うようなコピペ。
神戸JR三宮駅前の震災と復興の記録を展示しているフェニックス館には、
多くの写真や資料が展示されているが、自衛隊員が写っている写真は一枚も存在しない
記録も自治体、警察、消防、ボランティア等がほとんどで、
自衛隊に関する記述は僅かに災害の状況を示す時程表に「自衛隊災害派遣」の1行しか
認められなかった
信じられないが、神戸市はあの震災で自衛隊がほとんど何もしなかったことにしたいようだ
その5。
僕の実家は阪神淡路大震災の直撃を受けた。
後に聞いた話で、家の崩壊まで10分ほど時間があったそうなのだが、
その間父は逃げ延び、祖母は自室で絶命し、母親は生き埋めになった。
僕と妹は運良く上京しており、被災から3日目には掘り起こしを手伝っていた。
泥まみれの母親を初めに発見したのは僕だった。その時足は骨折していたが、
身動きが取れない中、ボロ雑巾のようなものを握り締めて放さないでいた。
僕が小学校の時に描いた、お絵かきコンクールで銀賞を取った絵だった。
自分では記憶にすら残っていなかったその絵が、
母親にとっては自分の息子を誇る最も大切な宝物だったらしい。
危機に直面した土壇場で、身の安全やお金よりも、息子の絵の事を考えたんだそうだ。
大学に殆ど顔も出さず退学寸前だった俺は、
その日から勉強に励み、5年掛けて大学を卒業した。
当時は後ろめたかったけど、今では胸張って叱ってあげられる。
「今度地震があったら、自分の命を一番に考えろよ」って。
母さん、長生きして下さい。
その6。
阪神大震災後のはなし
当時オレはあるファミレスの店員をしていて、
震災後、ボランティアでバイキングのみのメニューを
無料で提供する事になった
開店と同時に満席になって席待ちの列、繁忙期以上の忙しさだった
お客さんの中には着の身着のままで来る人がいて、
他のお客さんが
「自分は家が残っているし、帰れば着る物がある」と言って
上着を差し出す光景を時折目にして、目頭が熱くなったのを覚えている
昼を過ぎた頃、
待ち列の中にやたら身奇麗でアクセをジャラジャラ付けた
若い男女二組がいた
彼等は使い捨てカメラで撮影してはギャーギャー騒いでいた
さらに彼等は皆が我慢して並んでいる中、
「はやく席に案内してよ」と文句を言うばかりか、
「席に着いたら、即ビール4つね」
「わたしパフェたべたーいw」とワガママ放題
見るに見かねてケンカ覚悟で退店願おうとしたその時、
一人の御老人が
「あんたら、観光に来たのなら、頼むから帰ってくれないか!」
と涙ながらに訴えた
すると彼等は「カンケーないよw」「ナニか言ってるーw」
とケラケラ笑って茶化すだけ
さすがに頭に来たオレが
「申し訳ないですが、出て行ってもらえますか?」
と啖呵をきった瞬間、
オレの肩をポンと叩いて前に割って入る男性がいた
男性は腕まくりをして見事な刺青を見せ付け、
傍若無人な若者たちの前に立つと
「オイ、にいちゃんら はよおうちに帰って、
テレビでも見とかんかい!」と一喝
彼等は黙ってスゴスゴと、
埃一つ付いてない国産高級車で帰っていった
その後、ヤのつくヒトであろう男性は帰り際、
「店員さんはケンカしちゃいかんよ、
そういうのはワシらの仕事やからw」
「食事ありがとう、おいしかったよ」と言って店を後にした
その時の男性の埃まみれのパンチパーマに
ヒビの入ったサングラス、
少し足を引きずって歩いて帰っていく姿が印象的だった
その7。
昔、俺がまだ神戸で雇われのバーテンダーだった頃の話。
その店は10階建てのビルの地下にあった。で、地下にはうちの店しかないんだけど、
階段の途中にセンサーが付いてて、人が階段を通るとカウンターの中のフラッシュが光ってお客さんが来たのがわかる仕組みになっていた。
でもたまに、フラッシュが光っても誰も入ってこない、外を見ても誰も居ないって事があって、
俺は寂しがりやの幽霊でも来たのかなって半分冗談みたいに、ウイスキーをワンショットカウンターの隅の席に置いて「ごゆっくりどうぞ?」と言っていたんだ。
それからはそれがおまじないというか、げんかつぎみたいになって、そうゆうことがあると、いつもそれをしてた。
そのうちお客さんも「おっ今日も来てるねー」みたいな感じになって(そうゆう日に限って店は凄く忙しくなった) 姿は見えないけど、その頃は店の常連さんみたいに思っていた。
ある冬の朝方、またフラッシュが光ったんで、こんな遅くにお客さんかぁと思って外を見ても誰も居ない。
なんかそのまま朝の空気が心地よいので、階段の上まで昇って一服してたら、突然の大地震。そう阪神大震災です。
うちのビルは地下と一階部分がぺっちゃんこ。あのまま中に居たら確実に死んでました。
あとから考えるといつもただで飲ましてあげている、あの見えない常連さんが助けてくれたのかなぁと思います。
今も違う場所で自分でお店をやってますが、その店のスイングドアが風も無いのにギギィーって揺れたりすると、
今でもウイスキーをワンショットカウンターの隅に置いてます。
そして心の中で「いらっしゃい。あの時はありがとうございました。」と思うようにしています。
その8。敢えてノーコメント。
[阪神大震災が天罰?]
ノーベル賞作家大江健三郎が韓国に行った時、ある韓国人ジャーナリストが、彼に質問をした。
…時は阪神大震災の翌年1996年の事。
韓国人ジャーナリスト:
「大江さんに質問ですが、去年に日本で起こった阪神大震災は天罰だと思いますか?」
「過去に日本は韓国に多くの迷惑をかけてきたので、天罰ですよね?」
大江健三郎:
「もし、天罰なら何故在日韓国/朝鮮人もその震災で命を落としたのでしょう?」
「もし貴方の言うように、天罰ならば、1人の韓国人も死ななかったことでしょう」
その韓国人ジャーナリストは、何の反論もできないまま静かに逃げるように退室した。
今もあの震災が与えた影響が大きいことを考えると、被災者の方々にどんな言葉を伝えたらいいのか正直分からなくなってしまいます。
それとともに、自然災害の恐ろしさも。
その後も震度6弱以上を記録する地震はたびたび起きています。
1997年7月には鹿児島県北西部地震。
1998年9月には岩手県内陸北部地震。
2000年10月には鳥取県西部地震。
2001年3月には広島県芸予地震
2003年7月には宮城県北部地震、同年9月には北海道十勝沖地震。
2004年10月には新潟県中越地震、12月には留萌支庁南部地震。
2005年3月には福岡県西方沖地震、8月には宮城県南部地震。
2006年4月には伊豆半島東方沖地震。
2007年3月には石川県能登半島地震、7月には新潟県中越沖地震。
そして去年(2008年)6月は岩手・宮城内陸地震。
地震もいつどこで起こるか分かりません。
明日は我が身、ということもあり得ます。
言い尽くされたことですが、日頃からの兼ね備えが本当に必要ですね。
【関連記事】
・阪神・淡路大震災から13年。
阪神・淡路大震災の全記録映像がYouTubeにUPされていました。


